ある日の声春ラジオは緊張を感じさせる姉御の声で始まった。

『……えー、今週も始まったね。声春ラジオ。パーソナリティの己己己己己己己です……』
『同じくパーソナリティの咏ノ原清恵です。どうしたんです、己己己さん? 何やら緊張してらっしゃるようですが』

 咏ノ原さんの言うように、姉御の声はいつもより固く感じられた。慎重に言葉を選んでいるというかなんというか……とにかく、このラジオには似つかない雰囲気だった。

『いや、だってさ……えー、まぁ、とりあえずリスナーの人わかんないと思うから説明するけど、今日ね、ちょっといつもと違うところがあるんだよね。ちょっとっていうか、かなりなんだけど』
『そうですね。ブースの外の景色はいつもと違って見えます』
『ブースの外は、いつもプロデューサーさんとかミキサーさんとか、そういう番組スタッフがいるのね。あとはうちのマネージャーの青木とか。……なんだけど、今日は何故かいつもいない人がいて……』
『いらっしゃいますね』
『そう。まぁ、あの、事務所の社長なんだけども……』
『珍しいですよね。この番組の収録中に会うのは初めてかもしれません』

 へー、社長いるんだ、今日。通りで姉御は固くなっているわけだ。ちょくちょくこのラジオでも社長の名前が出たことはあるが、その度に姉御は萎縮していた。……もしかしたら、姉御たちの事務所の社長は怖い人なのかな……? 対照的に、咏ノ原さんはいつも通り淡々としてるけど。

『というわけで、ね。あたしは今、すっごい緊張してます。何でなの? マジで。今日、もしかして何かあんの?』
『もしかしたら、見に来たのかもしれませんね』
『え? 何を?』
『己己己さんがちゃんとまじめにやっているのかどうかです』
『あたしなの!? あんたじゃなくて!?』
『私は大丈夫です』
『何が!? どういうこと!? ちょっ、ねぇ!?』

 咏ノ原さんの振りに姉御は動揺を隠せない。どうやら相当社長に怯えているようだ。

『冗談は置いておくとして、社長さんはたまたま近くで用があったので、ついでに寄ってみたと言っていましたよ』
『マジで? ……あー、よかった。いや、別にやましいことなんか全然ないんだけど。ほんと、全然』

 と強がりながらも、姉御が安堵のため息を漏らすのを収録用マイクは逃さない。こんなにもビビる姉御を見るのは初めてかも。姉御には申し訳ないけど、少しだけ得をしたような気分になる。

『……それにしてもさ、清恵さ、緊張しないわけ? 社長いて』
『特にしませんね。社長さんには可愛くしていただいているので』
『あー、まぁ、確かに。何か仲いいよね、あんた。……でも、あんまりそういう、可愛がってもらってるとか言わない方がいいかもね』
『……? 何でですか?』
『いや、だってさ……いるんだよ、ほら。下衆な勘ぐりする奴が』
『下衆な……?』

 皆目見当もつかないかのように、唇からクエッションマークを漏らす。きっと咏ノ原さんは不思議そうに小首をかしげているに違いない。

『そう。なんつーの? いわゆる……枕営業ってやつ? 愛人枠とかさ。そういうこと言ってくる心ない奴もいるわけ』
『愛人……? 誰が愛人なんです?』
『いや、あんたが』
『誰のです?』
『社長の』
『……? そんなことありえませんね』

 淡々と。怒るでも悲しむでもなく、何の感情も見せずに切り捨てる。

『うん。その通り。ありえないよ? 実際は全然何にもない。全くない。けど、それでも言ってくる奴はいるわけ。愉快犯ていうのかねぇ』
『理解しかねますね。確かに、社長さんは素敵な方だとは思いますが』
『ね。ダンディでね。ナイスミドルって感じ? でも、それとこれとは別だよね』
『はい。それに、カブト虫みたいな顔の男性はあまり好みではないので』
『おいぃ!? カブト虫って、あんたさぁ……』
『こう、鼻が長くて、こう、』
『いや、説明を求めてるわけじゃなくて! いくら仲いいからって、言っていいことと悪いことってあるだろ』
『悪くなくないです? カブト虫。かっこいいじゃないですか。昆虫の王ですよ? ちなみに私はクワガタ派ですが』
『はぁ……? ま、確かにカブト虫自体はかっこいいかもしれないけどさ……。けど、だからって自分の顔をカブト虫に例えられるのは嫌でしょ』
『そうですか? でも、綺麗な女性のことを蝶に例えたりしません?』
『いや、それはそうだけど……でも、あれは顔を蝶に例えてるわけではないでしょ』
『……確かにそうかもしれません』

 咏ノ原さんが素直に反論を受け入れるだなんて、珍しいこともあるもんだ。いつも淡々と自分の正当性を主張する人なのに。

『でしょ? だから、流石に社長も怒るよ? いくら仲いいからって、カブト虫みたいな顔って言われたらさ』
『大丈夫です』
『だから何が!?』
『もし社長さんが怒ったとしても、怒られるのは多分己己己さんなので私は大丈夫です』
『わかってんならやめてくれない!?』

 声を荒げながら懇願する。姉御の気苦労は絶えなかった。